人々の想いと縁、世界情勢までもが絡み合いできたカレッタのはじまりと進化を初代館長が語る物語
カレッタの前身となる日和佐水族館など、これまでのカレッタや当時貴重な剥製の輸入に関する物語を語る中東さん
日和佐中学校から日和佐水族館へ、中学生から日和佐町へ
現在も徳島県美波町で生活している中東覚さん(73)
当時は、役場の職員として働いていた中東さんにどのような経緯でうみがめ博物館の初代館長をすることになったのかお話を聞いてきました。
1950年頃、地元の中学生がうみがめの飼育を行っていたそうですが、飼育をし始め10年ぐらい経過するとうみがめの数もサイズも増えていき、中学生だけでは飼育するのが難しくなったので町がうみがめの財産を管理するようになったと言います。増えたうみがめを飼育するには現状の環境では難しいということもあり、そこで日和佐うみがめ博物館カレッタの前身となる日和佐水族館が誕生しました。当時の日和佐水族館は中学生が育てたうみがめを中心に地元の漁師さんが取ってきた近海の魚も一緒に展示してあり、徳島県内にある水族館は鳴門市に1つあるだけで徳島県南部においては初の公立の水族館だったそうです。
そこに初代館長として勤めることになったのが中東さん。最初、中東さんは学芸員でもない者が館長をしていいものか悩んでいたそうですが、その当時うみがめや水族館に関してアドバイスをもらっていた姫路市立水族館館長の内田至さんに「日和佐ではうみがめ博士として沢山の知識を持っている中東さんがしてはどうですか」と後押しをされ初代館長を勤める事になったそうです。
博物館構想と立ちはだかる大きな壁、行動する事で生まれた結果と貴重な情報の数々
水族館の運営を10年ほど行ったあたりから、亀の成長に伴い現状の水槽では手狭になっていきました。そこで、水族館設立から長年アドバイスをもらっていた内田至さんから、水族館からうみがめに特化した博物館にしてはどうかという構想案が出てきたそうです。
この構想案がのちのうみがめ博物館カレッタに繋がる事になるのですが、当時はオイルショック真っ只中。当初予定していた事業費も世界情勢の影響もあり十分に確保できる状況にならず、一旦財源が十分に確保できるまで計画を中止するという話が出てきたそうです。
そこで、中東さんは「ここで一旦中止してしまうと、今後違う問題が色々と出てきてしまって計画を進めるのがもっと難しくなりかねない。一気に話を進めて欲しい!」と訴えたそうです。中東さんの必死の訴えもあり計画が中止する事なく今のカレッタ誕生に向け話が進み始めました。
カレッタ設立の問題もそうですが、中東さんが当時苦労した事は別にもあったそうです。それは、情報収集です。
現在ではインターネットやスマホの普及によりどこでも誰でも簡単に情報を得る事のできる時代ですが、当時情報を得ようとするには図書館に行くか百科事典で地道に調べていくことしか方法がなかったと言います。その中で、中東さんが大切にしていたのは資料の情報も大切だけど、人と会い直接話を聞き情報を得るということでした。文字情報だけでは分からない、表情や熱量、歴史など見えない部分の生きた情報が大切と話していました。
更には、人との縁で新しい繋がりも生まれたと言います。当時、オーストラリアのケアンズとは姉妹都市を締結する前に、ある会社の常務が日和佐にうみがめを見に来た事があり、その人を通じてオーストラリアのケアンズにもうみがめが来るという情報を得たそうです。そこで、お互いの町でうみがめに関して関わりがあるということがわかり様々な情報交換をしていたようです。その中でもうみがめの剥製の事は鮮明に語っていました。。
当時、ワシントン条約の兼ね合いもありオーストラリアから国外へ亀の剥製を送ることは非常に難しかったようです。様々な手続きの後に送られてきた亀の剥製を小松島の税関を通して国内に持ち込もうとした際、亀の剥製を日本国内に輸入するには前例があまりない為、小松島の税関では対応できないとのことで、一度神戸の税関を通して日本国内に持ち込まれたそうです。
その過程で徳島と神戸を行き来する中、当時一緒になって動いていた助役の方とはすれ違いになってしまい、ほとんど連絡を取れなかったと言います。そして、無事手元に届いた亀の剥製を見て二人で「思った以上に小ぶりの剥製ですね」と顔を見合わせながら話していた事を懐かしそうに話していました。
様々な方々と出会い交流から生まれた貴重な資料の数々は今も色褪せない当時の空気を残している
カレッタに展示されている情報はどれも価値のあるモノだと話す中東さん。カレッタ2階に展示されている珊瑚礁のレプリカは、当時オーストラリアと情報のやり取りをしている最中に行われた大阪万博で展示されていたモノをオーストラリア側がそのまま交流のあった美波町に寄付してくれたモノだと言います。
その他にも前述の亀の剥製などカレッタ内に展示されているモノや情報は当時様々な人との交流から生まれたものが沢山あると言います。
その中でも現在、カレッタ屋外に設置されているうみがめ型の公衆電話。中東さんが館長になってから3、4年後に設置されたモノらしく、当時は今のように携帯電話があるわけではないので外に出ると連絡する手段がなく、どうにかならないものかと電電公社(現NTT)に相談に行ったそうです。普通の公衆電話では面白みがないので何か変わった意味合いをもった公衆電話にしようという話になったようでした。その当時のコンセプトで言うと、このうみがめ公衆電話から電話をかけると、乙姫さんに繋がりうみがめの情報を教えてもらえるという設定にし、町の盛り上げに一役買っていたそうです。
情報の少ない中、様々な方法でうみがめの事を知ってもらい興味を持ってもらうためにがむしゃらに行動した中東さんに今後のカレッタがどのような存在であって欲しいかをお聞きしました。
中東さんが語るうみがめ博物館カレッタの存在価値、そして期待する未来
今の時代からするととても貴重な様々な体験をしてきた中東さんが、カレッタのリニューアルに伴い願っている事があると言います。
それは、「うみがめ保護発祥の地」である事を大切にして欲しいとのことでした。
中東さん曰く、
「うみがめに関して研究をしている学者や学芸員、そして若い世代の小学生から高校生がこの地に来て発祥の地として得られる情報があるのでそこを大切にして欲しい。そして、その情報や歴史を元に様々な人にうみがめに関する興味を持ってもらい、学者や研究者が様々な化学反応を生み出していって欲しい」
と、これからの研究に期待する様子が感じ取れました。これからも様々な人が美波町を訪れカレッタをキッカケとして生まれる化学反応を想像しただけでもワクワクし楽しみです。美波町カレッタを訪れ、歴史ある資料に触れあなたも化学反応を感じてみてはいかがでしょうか。 カレッタをキッカケとして今後の更なる研究や化学反応に期待が高まりますね!